風がかたり光がしめすもの

感光と随感と思索による記録

遅筆についての弁解

 ブログを開設してから一ヶ月半経過した。それなのにまだ6記事しかないのに私は驚いている。
 もともと遅筆なのは自覚していた。けれどそれにしたってこの少なさは異常だ。

 この遅筆さの理由について、明らかなことのひとつは、前回の記事が自分にとっては難題であり、あの記事をまとめることに時間がかかったことである。

 

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 だいたいの構想は一ヶ月前にはできていた。しかし、それをひとつの記事にまとめること、あるいはまとめきれなくても公開まで踏み切るのに、一ヶ月かかっていた。


 ひとつの境地に達したつもりなのに、それを文章とするのにあれほど時間がかったのだから、ずいぶんと雑駁で、あいまいで、不明瞭な境地だったと苦笑するほかない。
 それほどの時間と文字数を費やさなくても、「ある先人の言葉を知ったことで、特定の女性にむけていた愛着*1を、自然物に適応するに至った」で済みそうなことでもあった。ただ、それではどうも抽象的な気がした。実体験に基づいた、具体性のある、明確な表現に近づけようと苦心し、それが内容に反映されたかはともかく、あれだけの時間と文字数および思索と追究とを必要とした。非常に骨の折れる作業だった。もう折れる骨が残っていない気もする。
 ヴァレリーにならってインスピレーションやらに逆撃をくらわせようとして、ヴァレリーの足下におよばぬ知性のためにかえって愚鈍さを証明していたわけである。
 愚鈍——、それが自分の遅筆の大きな要因なのだろう。頭の回転が遅い。普段でもそうなのに、キーボードのうえに指を置くと、時計が1.5倍速で動くようだ。それほど時間が短く感じる。
 もっとも時の短さを嘆いただけではなく、「時の速さに対抗するには、それを使う速さで競わなければならない」との哲人の言葉にしたがい、いくつかの方法を試みた。

 

 たとえば、あるメーカーの高級なキーボードを購入した。いままで使っていた某メーカーの3000円ほどのキーボードにくらべれば、高級感があり、本体に重みがあり、キーは軽くしかも無音。触れるだけで名文が書けそうで気分が高まった。そうしてその高揚感にまかせてキーを乱打した。


 たしかに、以前より素早くタイピングできた。しかし、できあがったのは駄文で、つまり入力しやすいために、駄文が素早くできあがっただけだった。高いキーボードを使ったところで文章に高級感が付加されないことは想定内だったが、雑文になることは想定外で、私は嫌気がさした。たとえ同じ駄文でも、某メーカーの低価格なキーボードなら、低価格なのがそのまま文章に反映されたのだと断定できただけに、どうにも言い逃れができない。筆を折るならぬ、キーボードを折るということをしようともしたが、卑俗な根性が抜け切らぬ私は思いとどまった(しかしキーボードの固さから考えて、自分の力では折れなかったにちがいない)。

 

 つぎに音声入力を試みた。はじめはデモンストレーションで時間がかかったが、二日もするとだいぶ使えるものになった。かなり手間が省ける。自分の文学的素質を棚に上げ、これなら、傑作小説も書ける(喋れる?)だろう、と感動した。
 それであるとき、ベッドに寝ながら、画面を確認せずに、音声だけで文章を作成した。ドストエフスキーになった気分だった。しかしあとで内容を確認してみると、ずいぶんと「Fワード」のたぐいが散見された。ウイルスか? 某OSメーカーの陰謀か? と、いらだって「ふざけやがって」と口にしたとき、自分がそういうことを言いやすい人間だと知って閉口した。


 いやいや、機能のほうでちゃんと調整してくれなければ困る、とも思った。これでは、司馬温公のような、閨中で語ったことでも人に語れないことはないという聖人君子のみが使用すべきじゃないか。某OSメーカーのほうでも「聖人君子用モデル」とかいう表示をすべき義務があったはずだ。
 私は音声入力をやめた。機能が改善されるまで待とうではないか。つまり文脈にそぐわない「Fワード」を排除し、口にしたことが格調高く、自動的に名文となるような「小人用モデル」がでるまで音声入力は差し控えたい。私が作れそうな気がする傑作小説も、それまでお預けとなる。これは文学史的に非常な損失であろう……

 

 またこんなくだらないことを長々と書いてしまった。この記事で述べたいことは、私の遅筆のせいで、これからの記事はずいぶんと季節感を無視したものになる、ということだった。これで言い訳はできたはずだから、これからどんどん時節に逆らった記事や写真を掲載していこうと思う。

*1:ルイジ・ギッリは撮影について愛着を投ずることと述べていたという

春を知ったこと

前回前々回の記事で述べたように、私は亀戸天神を参拝して、その後に隅田川の桜を撮影した。それから私は、菅原道真のことが気になってwikiを調べた。wikiでは道真の思想についても軽く触れられていて、そこには、

「全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない」
香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず(香りは、わざわざ火を用いて焚くものではなく、清らかな心の中に薫るもの。同じように、花は春が来るからつぼみが開くのではなく、正しい心で合掌するその手の中に花は咲くもの。)

菅原道真 - Wikipedia

とあり、これが道真の思想の一部をしめすものでしかないとしても、こうした言葉を知ったことで、自分のなかで何かが氷解するのを感じた。

 

「不遇」とか、また道真が受けた受難にくらべれば深刻な問題ではないことはわかっている。他人の目からすれば「たかが失恋しただけで」といいたくなるだろう。しかしその「たかが失恋しただけで」あっても、彼女は自分にとってかけがえのない存在だったし、この数年、仕事以外では引きこもりがちな生活をするほどの苦痛を受けた。春の到来には気づけない、とのほどではないにしても、心から春を喜べない自分がいて、その意味では春の到来に気づかないのと変わらなかった。

 

 その女性と別れたのは、数年前の三月のことだった。今でも鮮明に覚えているのは、その女性と別れる数週間前のめずしく雪がふった翌日に、彼女と近所の公園を訪れたときのことである。彼女はゆびを真っ赤にしながら、ふたつの名前を雪のうえに書き綴り、さらには「二人の関係が永遠に続くように」との言葉をつけくわえた。そのときは、今の状態の延長がその「永遠」であるから、その「永遠」を想定するほうがたやすく、逆にその「永遠」を反故にすることのほうがいくらか想像力を用いるゆえに、非現実的に感じられたし、あえてその非現実的な状況を想像する必要もなかった。しかしそれからわずか一ヶ月後には、まったく異なる関係となり、書き綴られた「永遠」とはまったく異なる、想像していなかったほうの「永遠」を受け入れねばいけなかった。ここで別れた理由や経緯を書くことは蛇足なので割愛する。
 
 ともかく一人で春をむかえることになったその年の春は、人生でもっとも暗い春だった。例の公園の前を通りかかったとき、すでに四月であり桜が咲いていた。だいぶまえから知っていたけど、雪は溶け、文字は消えていたのだと実感した。
 そして彼女と来たときにはなかった桜が咲いていた。色鮮やかに美しく。しかし、美しければ美しいほど、哀しみが深くなるのを感じた。
 
 それから数年経っても、桜を見るたびに彼女が綴った文字が鮮明に甦った。バイロンのように、文字を綴った女性を気まぐれだと責めることは、私には許されない気がした。自分の非力さが、あの文字を消失させたと思うために。
 
 そして、今年もそれが来ただけだと思っていた。けれども、私は何か違うものも感じる。ある意味ではカメラに導かれて、春の風景を撮りに出かけたのだが、あらためて春に美しい世界が広がっていることに気がついた。さらに亀戸天神で、菅原道真に興味を持ち、その思想の一部を知ったことでひとつの境地に導かれた。

 

 本物の春が訪れたのだ。そしてこれまでに何度か見た春と思っていたものは、凍りついた私の感情のうちに萌すものがなかったという意味で、春とはいえなかった。数年におよぶ冬も、もう呪うべき対象ではない。春の力強い生命力は、多くの生命を滅ぼす冬を打破したのである。そしてここでは、次のような聯想もゆるされる。雪の上に書いた彼女の文字は消えてしまったが、それとともに溶けた雪は地上のあまたの生命に潤いを与え、春の彩りとして宿った、と。
 こうして私は春を知った。生命力が蘇るのを感じる。数年に及ぶ苦悶は、長かったが、これほどの苦しみのあとにも春が来ることを知ったならば、その年数は春を知るために必要な期間だったともいえる。

 

スカイツリータウンの夜景と隅田川の夜景

前回の記事で書いたとおり私はスカイツリータウン周辺で撮影を続けて、日没前後の写真を撮った。

 

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 隅田川にむかった。20時頃に着いた。

 ライトアップされた桜とスカイツリー、それに屋形船を撮りたかったので、私は言問橋を越えて、台東区側の川岸へ行き、撮影ポイントを探そうとした。そうしているときに屋形船が通過しそうだったので、即座に三脚をセットして、長時間露光で撮影した。

 桜をイメージしてライトアップされたスカイツリーと、提灯の光に照らされた桜(といってもその半分も開花していなかったが)、川面は鏡面のようになめらかになってリフレクションを映し、屋形船の光跡がそこを横切る。これまで何度か、この川岸で撮影したけれど、このときの写真が一番いいと自画自賛した。

 もちろん、さらに好条件のタイミングを望むことはできたにちがいない。しかし眼前の、季節に調和した綺麗な夜景と、それを撮影することができたことを幸運だと思べきだと感じた。様々な運の巡り合わせがあったにちがいないし、どんな光景も、二度と訪れない時が繰り広げたものであるから。
 ライトアップはこれから数日続くだろう。また、春が訪れるたびにこの綺麗な夜景が見られるにちがいない。けれど私がまたふたたびこの地に来るかわからないし、来ることができても、快晴で風が穏やかな日があるとは限らない。この日の撮影に不満を思うことはある。けれどそれよりも感謝することが大切であろう。
 いずれにせよ、この一枚が、撮影時の境地を示す。不満点や改善点などは、次の撮影で克服すればよく、失望のために写真をムダだと思うべきではない。
 このようなポジティブな考えと充足感がうまれたのは、春の陽気さのためかもしれない。桜の美しさのためかもしれない。しかしそれ以上に、私が菅原道真について知ったことで、開眼するところがあったからにちがいない。そのことについては次の記事で述べたいと思う。

亀戸天神とスカイツリーの写真

亀戸天神

 亀戸天神を訪れたとき、私は既視感を覚えた。一週間ほどまえにみた夢のなかで、似た光景を見ていた気がしたのである。しかし「五歳管公像」をみたとき、夢でみたために既視感を覚えたのではなく、かつて参詣した太宰府天満宮防府天満宮と似ている雰囲気があったからかもしれないとも思った*1
 太鼓橋、梅の木、牛の像、それと全体的に朱い色合いであることなどは、菅原道真を祀る神社の特徴なのだろうか。そして太宰府天満宮にも松尾芭蕉の句碑があったが、ここにも松尾芭蕉の句碑があった。
 芭蕉の句碑をみて、おもしろみを感じたのは、この境内からスカイツリーが望めることである。拝殿とスカイツリーが一緒に撮れ、あたかも芭蕉が説いた不易流行を具現化した世界のように感じられる。
 

スカイツリータウンへ

 亀戸天神をでて、スカイツリーを目指した。その途中、私はふたたび既視感におそわれた。そのときスカイツリーはすぐそばの建物によって遮られていて、それでどこにでもありそうな光景が眼前にひろがっていたので、亀戸天神で考えたように似た光景をどこかで見たために、既視感を覚えたのだと思った。すると既視感はまたも私をおそい、というよりも夢で見たときの光景とともにその夢で考えたこと、つまり夢で見たのではなくどこかで似た光景を見たからだろう、と考えることすら夢のなかで思ったことが、かなりはっきりと意識された。そして私は、軽い頭痛を覚え、右のこめかみ付近の拍動のたびに、その血管がキリキリと締め付けてくるのを感じて、まるで頭が割れるのをふせぐかのように手でおさえて軽く目を閉じたとき、直前に視覚が捉えていた光景がレントゲン写真のような黒い背景と青白いフォルムの線となった残像を生んだが、すぐにそれは手放してしまった風船のように離れて小さくなっていった。
 
 どこかで休憩しようとGooglemapを見たとき、そこが「業平」との地名であることに驚いた。菅原道真在原業平に親交があったという話をいつだか読んだ記憶があったためである。この二人について、あとで詳しく調べなければと考え、近くにあるセブンイレブンでコーヒーを買うことにした。コーヒーを飲めば体が冷えて肩こりがひどくなるのは承知しているが、頭痛を緩和させるのにはそれなりの効果があり、正夢をみないような完全に覚醒した状態となりたいという思いもあった。

 コーヒーを飲んで活力を取り戻した私は、間近に迫ったスカイツリーの撮影を続けた。

*1:この時の私は、天神信仰天満宮の関係について知らなかったし、亀戸天満宮と呼ばれていたことも知らなかった

三月末の千鳥ヶ淵公園の桜

 前回の記事で書いたように熊谷であまり撮影できなかった私は、つぎの撮影地として「千鳥ヶ淵公園」に足を運んだ。ここも春になったら撮影したいと考えていた場所であり、しかも東京での開花宣言のほうが早かったので熊谷よりは良い写真が撮れるのではないかと期待することができた。仮に桜の開花がおもったより進んでいなくても、千鳥ヶ淵公園のライトアップもされているし、東京ならほかにも魅力的な被写体がある。

 

 

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 千鳥ヶ淵公園の桜も見頃にはまだ早かった。いくつかの桜木は春のよそおいに改められていたが、大多数の木々は、まわりから浮くことをおそれて春服に変えるのを躊躇っているかのように、様子をうかがいながらすこしずつ蕾を開いているように見えた。


 ライトアップされる日没まで時間があったので、被写体を求めつつ、日没後に撮影する地点を定めるために、公園をめぐることにした。
 


 
 残念ながら、当初目的のひとつとしていた展望台では、三脚の使用を禁止する張り紙がしてあった。私はしかたなく、さきほど歩いた公園の周辺で、人の邪魔にならず、全体を撮影できそうなところを求めてふたたびさまよった。結局この日撮れたのは、次のような写真だけだった。

 
 この日に撮影した写真は満足できるものではなかった。一ヶ月ほどカメラをさわっていなかったことで、むかしよりも腕が衰えた気がする(まあそんな腕前でもなかったけれど)。場所をもとめてムダに歩きすぎたために疲労も蓄積していて、集中力も散漫になっていた。それでこの日は不本意ながら切り上げることにした。

三月末の熊谷桜堤

 ひさしぶりにカメラを持って撮影にでかけたのは、以前から行きたいと思っていた熊谷桜堤の桜が開花したという情報をえたからだった。

 

 熊谷についたのは朝の7時頃。荒川沿いの土手には、ビビッドカラーの菜の花が咲いていたけれど桜はまだ蕾のものばかりで、ときどき早熟な花が咲いているだけだった。そのため私は、この菜の花と桜の花が一緒になっている風景を撮ることができなかった。ネットで見ることできる、あの美しい風景があると思ったけれども。

 

 桜のかわりになにかを撮らなければと被写体を探すことにした。名高いスポットに行くことは感動を与えられることと、素晴らしい写真が撮れるという意味で大事なことだろう。それでも私のようにピークと違った場合は、落胆したとしてもすぐに気を取り直して、被写体を探さなければいけない。そこでいい写真が撮れるかどうかは別問題で、いかなる場所であっても美を見出す訓練と、美を写す訓練をするには不足ということはないはずである。「四時を友」とした芭蕉は、どんな季節からでも風雅を見出しただろうから。

 


 ここでの写真が後日、自身のうちでどういう位置づけとなるかはわからない。それでもここで見る力、感じる力、撮る力(そしてそれらはヴァレリーのいうところの「意志して見る」ことである)が鍛えられたとし、せっかちな私はこの地を離れることにした。いずれまた熊谷桜堤に来るかもしれないし、来ないかもしれない。そこは運に任せることにして、咲きかけの桜を後にした。

はじめまして

 はじめまして、一眼レフカメラ初心者のhm87です。

 

 これまでは周りの人にちょっと見せる程度だったのですが、ネットで公開することでより上達できるかと思いブログをはじめました(まあ、一時期Instagramもやってましたけど笑)。このブログでは撮影した写真と、その場所で感じたこと、またその他の趣味(ウイスキー、読書、歴史とか)で感じたことなど気ままに綴っていこうと思います。誰かのためというよりは自分のための記録と随想ですので、「だ・である」調の文体が基本となりますが、これからよろしくお願いします。