風がかたり光がしめすもの

感光と随感と思索による記録

遅筆についての弁解

 ブログを開設してから一ヶ月半経過した。それなのにまだ6記事しかないのに私は驚いている。
 もともと遅筆なのは自覚していた。けれどそれにしたってこの少なさは異常だ。

 この遅筆さの理由について、明らかなことのひとつは、前回の記事が自分にとっては難題であり、あの記事をまとめることに時間がかかったことである。

 

hm87.hatenablog.com


 だいたいの構想は一ヶ月前にはできていた。しかし、それをひとつの記事にまとめること、あるいはまとめきれなくても公開まで踏み切るのに、一ヶ月かかっていた。


 ひとつの境地に達したつもりなのに、それを文章とするのにあれほど時間がかったのだから、ずいぶんと雑駁で、あいまいで、不明瞭な境地だったと苦笑するほかない。
 それほどの時間と文字数を費やさなくても、「ある先人の言葉を知ったことで、特定の女性にむけていた愛着*1を、自然物に適応するに至った」で済みそうなことでもあった。ただ、それではどうも抽象的な気がした。実体験に基づいた、具体性のある、明確な表現に近づけようと苦心し、それが内容に反映されたかはともかく、あれだけの時間と文字数および思索と追究とを必要とした。非常に骨の折れる作業だった。もう折れる骨が残っていない気もする。
 ヴァレリーにならってインスピレーションやらに逆撃をくらわせようとして、ヴァレリーの足下におよばぬ知性のためにかえって愚鈍さを証明していたわけである。
 愚鈍——、それが自分の遅筆の大きな要因なのだろう。頭の回転が遅い。普段でもそうなのに、キーボードのうえに指を置くと、時計が1.5倍速で動くようだ。それほど時間が短く感じる。
 もっとも時の短さを嘆いただけではなく、「時の速さに対抗するには、それを使う速さで競わなければならない」との哲人の言葉にしたがい、いくつかの方法を試みた。

 

 たとえば、あるメーカーの高級なキーボードを購入した。いままで使っていた某メーカーの3000円ほどのキーボードにくらべれば、高級感があり、本体に重みがあり、キーは軽くしかも無音。触れるだけで名文が書けそうで気分が高まった。そうしてその高揚感にまかせてキーを乱打した。


 たしかに、以前より素早くタイピングできた。しかし、できあがったのは駄文で、つまり入力しやすいために、駄文が素早くできあがっただけだった。高いキーボードを使ったところで文章に高級感が付加されないことは想定内だったが、雑文になることは想定外で、私は嫌気がさした。たとえ同じ駄文でも、某メーカーの低価格なキーボードなら、低価格なのがそのまま文章に反映されたのだと断定できただけに、どうにも言い逃れができない。筆を折るならぬ、キーボードを折るということをしようともしたが、卑俗な根性が抜け切らぬ私は思いとどまった(しかしキーボードの固さから考えて、自分の力では折れなかったにちがいない)。

 

 つぎに音声入力を試みた。はじめはデモンストレーションで時間がかかったが、二日もするとだいぶ使えるものになった。かなり手間が省ける。自分の文学的素質を棚に上げ、これなら、傑作小説も書ける(喋れる?)だろう、と感動した。
 それであるとき、ベッドに寝ながら、画面を確認せずに、音声だけで文章を作成した。ドストエフスキーになった気分だった。しかしあとで内容を確認してみると、ずいぶんと「Fワード」のたぐいが散見された。ウイルスか? 某OSメーカーの陰謀か? と、いらだって「ふざけやがって」と口にしたとき、自分がそういうことを言いやすい人間だと知って閉口した。


 いやいや、機能のほうでちゃんと調整してくれなければ困る、とも思った。これでは、司馬温公のような、閨中で語ったことでも人に語れないことはないという聖人君子のみが使用すべきじゃないか。某OSメーカーのほうでも「聖人君子用モデル」とかいう表示をすべき義務があったはずだ。
 私は音声入力をやめた。機能が改善されるまで待とうではないか。つまり文脈にそぐわない「Fワード」を排除し、口にしたことが格調高く、自動的に名文となるような「小人用モデル」がでるまで音声入力は差し控えたい。私が作れそうな気がする傑作小説も、それまでお預けとなる。これは文学史的に非常な損失であろう……

 

 またこんなくだらないことを長々と書いてしまった。この記事で述べたいことは、私の遅筆のせいで、これからの記事はずいぶんと季節感を無視したものになる、ということだった。これで言い訳はできたはずだから、これからどんどん時節に逆らった記事や写真を掲載していこうと思う。

*1:ルイジ・ギッリは撮影について愛着を投ずることと述べていたという